在所のお寺さんタイトル

 明願寺(国分町)


 大永四年(一五二四年)、開基北鹿渡祐正が鹿島郡国分村国分寺にて真言宗真福寺を創設したとされている。慶長十三年(一六〇九年)、第二世北鹿渡順正が東方教如上人(真宗大谷派第12代門首)に帰依し真宗に改宗し高井山明願寺となった。元和八年(一六二三年)、国分村から矢田郷小島村へ移転した。その後、寛永九年(一六三三年)に、七尾の三島町に移転し「三島町の明願寺」の時代が続く。

 三島町時代の明願寺の話を、国分の古老から聞いたことがある。「境内には、波が打ち寄せていて、カニが歩いていた」と海辺にあったことを話してくれた。また、立派な山門があり、その山門には馬の彫刻がされていて、名のある彫刻家が彫ったものといわれていた。その馬が、夜な夜な彫刻から抜け出して、走り回って農作物などを荒らすので、馬の脚に切れ目を入れ走り出さないようにしたという話が残されている。


 その明願寺は、明治二十八年の酉の大火、同三十八年の東の大火と二度の大火にあい、ほとんどのものを焼失してしまった。ついに、三島町での再建を成し遂げることができず、その跡地に七尾商工会議所が建っている。
「山門は、火災を免れた」といわれ、何処かに残っていないか、七尾市が富山県の方へも調べに行ったが、見つからなかった。また、火災を免れた鐘楼堂は、現在、中島町古江の安泉寺に移築され、当時の鐘楼堂石垣と共に現在も使われている。焼失後、国分に移住し「明願寺」の名を残していたが、再建の願いがかなわず、第十七世住職北鹿渡里麿で北鹿渡家時代が幕を下ろした。

 その後、堂守もなく住職もいなくなったが、明治の終わり頃、お念仏の法統を絶やしたくないという門徒の願いのもと、高畠福田の藤井専聴を迎えて、明願寺を再建し現在に至っている。奇しくも、現在の地ではないが、国分の地で出発した明願寺が、再び国分に帰ってきたのである。

     (文:住職 藤井良照・第345号 抜粋)

次へ

戻る