たかしなのせんだつたち

野村 謙三

 嘉永3年(1850)9月15日,西三階生まれ。文久3年(1863)金沢に出て,
加賀藩の医者大田美濃里に医学を習い,和漢学も学んだ。
 慶応2年(1866)横浜へ行き,さらに医者としての学問を研究した。また,
横浜にいたアメリカ人の医師であり宣教師(キリスト教のお坊さん)でもあ
るヘボン・セメンスについて,洋式眼科医術および英学,植物学を修めた。
 明治2年(1869)三階村に帰り,医者を開業。明治当初,七尾・鹿島地区
の種痘の予防接種をした医師でもある。医師をしながら,田鶴浜区学校
の先生をし,また,高階小学校のもとになった仁恵小学校の設立に力を
注いだ。
 生涯にわたり,高階村の村長をしたり,鹿島郡会議員や石川県会議員
になり,人々のために努力を惜しまなかった。
 高階村ばかりでなく,明治37年から大正12年の19年間北海道で医師を
したり,江別町会議員をして,石狩川に橋をかける仕事の中心人物として
活躍した。また,高階村の多くの人材を育て,支援し,高階の教育の礎を
築いた。
 昭和7年3月,惜しまれながら81歳でなくなった。村民は,7月17日,町屋
のいぼ池に功績を称える碑を建てた。

(写真パネル:図書室に 1997.6.27 長峰和人より寄贈)

野村 謙三 翁

(1850〜1932)



小田吉之丈

 明治7年,池崎の農家の長男として生まれ,明治20年西三階小学校を卒
業。
 青年時代,大阪に出て,昼間働きながら夜学にかよって勉強を続けた。
 24歳で池崎に帰ってからは,農業のかたわら,材木商や肥料商,瓦工場
などを始めたが失敗。
 31歳で小学校の代用教員になり,郷上の歴史や民俗研究にうちこみ,
『うぶ砂土筆』など五十数編におよぶ著書をあらわし,県下にほこる郷土史
家として世に認められた。
 七尾城の学問的研究で,昭和9年,能登地方で初めて国の史跡に指定さ
れるもとをつくった。
 昭和26年,78歳で没したが,昭和29年,七尾市民文化賞をおくられた。
小田吉之丈 翁
(1874〜1951)



北村 義男

 明治38年西三階町に生まれ,大正6年高階小学校を卒業。
 小学校1年の初め頃,風邪気味で学校を休んで,父にひどく叱られた。
それ以来,大学を卒業するまで一度も学校を休むことがなかった。
 大正11年石川県立七尾中学を卒業。七尾中学校まで自分で作った草
履をはいて,冬でも毎朝6時半に家を出て,8qの細い山道を歩いて通い
続けた。ある冬の朝,足袋の破れから出ていた右足のかかとが凍りつい
てしまい,泣き泣き親戚の家で足袋をはきかえさせてもらい,遅刻してし
まったのがただ一度の失敗だった。
 こうして努力に努力を重ねて勉強を続け,金沢の第四高等学校に入り,
昭和5年には東京帝国大学医学部を卒業。昭和11年には医学博士号を
とり,昭和28年徳島大教授,医学部長を経て,昭和45年徳島大学長に
選ばれ,昭和52年には四国女子大学長となり,昭和54年75歳で没した。
 毎年,卒業生に贈られる北村奨学賞は,高階小のみなさんの,勉強す
る努力を願って,博士から贈られるものである。

北村 義男 博士

(1905〜1979)